カナリアるーむ こころの相談室

神戸 岡本 摂津本山 おもちゃひろば~Toys' Campus内併設 カウンセリングをもっと身近に

普段着のやさしさ

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新年おめでとうございます。本年も宜しくお願い申し上げます。

12月〜春先に向かうこの季節は、集い、挨拶、食事、プレゼントなど準備の段階から含めて気持ちが運ばれ配られ合い、「行き来」が増えます。年一度の御祝い、気を張って少々お疲れが出やすくなることもあります。またこの時期、学業やお仕事柄ご多忙を極めていた方、あるいはご家族の事情などでご自分のことは後回しであったという方も少なくないと思います。お休みが取れそうなときには無理をなさらず、一息ついて体と心を調えていただきたいと思います。

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さて比較的外出も多くなりました。行く先毎にネット検索、問い合わせ、決済、配達、卓上で注文など電子化、セミセルフサービス、ある程度は自分で責任を持って遂行する…という時代になりました。便利は便利になったのですが、まごつき焦りはどなたも経験があるでしょうし、逆に慣れれば、もはやスムーズな手続きがないとかえって不快や苛立ちもさしこむ時代になったようです。

そのせいなのか余計に、人と人の間のふとした思いやりが印象に残るようになったと思います。よく耳を澄ますと、街にはそんなささやかなやりとりの瞬間があることに気づきます。

 

ある日のコンビニ店員さん。手袋を外しながら後列を気にするも寒くてかじかんだ手がうまく鞄のポケットを探れずもたついていると、「いやー今日ほんとに寒いですねえ」と緊張をほどくようにご自分も両の手をこすりあわせて声をかけてくれる方。

 

寒い夕暮れ、待つのは当たり前のバス停留所、ちゃんと遅れなく時間通りに到着したはずのバスの中で聞く、運転士さんのゆったりとしたアナウンス。「皆様、大変お寒い中を長らくお待たせいたしました、発車いたします。」

 

「これとこれはどこが違うの?」と100円均一でスリッパを選ぶ初老の女性。片方は200円の識別札。種類の多さから咄嗟に見分けかねるスタッフさんが連打で鳴るベルに呼ばれて申し訳なさそうにそそくさと去り、かわりにその場にいた見知らぬ3人が寄ってスリッパをしげしげ観察。……「あっ、わかった!かかとにほんのすこしだけ縫い縁がある、だから200円なのね。」「こっちのが脱げにくいわね」たかが100円されど100円。女性はほっとしたように、「ありがとう、正月に息子が来るの…うちの床、冷たいから一つ買いたくて、助かりました。」

 

こんな時間、思いがけない一言に、人は温まり少し元気を回復する。

 

コロナ会話混雑御免、すみやかに急ぎ通過せよ、そんな自動改札みたいな世の中ではあるけれど、人の心のスピードは依然変わらず、やっぱり時に立ち止まり、時に確かめ、チューニングが必要です。ご自分の心の音をよく聞いて、それがどう伝わってくるか、どう相手に伝わるか、どうすればよく響き合うか。あるいは「自分」と「自分の本音」が調和するか。ほんの少し緩やかな気持ちで耳をかたむけられたらよいですね。その一言に、普段遣いのやさしさが宿っているのかもしれません。

そんなことを思う年の始まりです。

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2023年が皆様にとって佳き年になりますように。

カナリアるーむは年始4日より開始します。ご自分の心身へのねぎらい、新しい年への思いなど、お気持ちに少し丁寧に向き合いたいとき、お気軽にご利用下さい。

(ご案内)年末年始の休室・新時間枠について

カナリアるーむ 年末年始のお休み:

12/30(金)〜1/3(火)

 

❇【追加案内】今月より、おもちゃひろば閉店直後17:00台からの面接開始枠を試みとして設けます。ご希望の方はお申し出下さい。 例)17:30〜・18:00〜の枠など

なお従来より早いこの開始枠の場合、ひろばのお客様のご退店・閉店業務の完了状況により、面接室のセッティング(家具配置)に変更が生じたり、少々お待ちいただく場合がございます。予めご了承お願いします。

❇ご継続の方へ

ご予約希望時間など、お問い合わせは常時受け付けています。LINEまたはメールにて曜日・時間帯に関わらずご送信下さい。当方からは早めに、遅くとも翌日中に返信いたします。

❇ご新規の方へ

年内の初回面接は12/27(火)まで・年始は 1/6(金)以降の日時設定となります。ご利用に関するお問い合わせは、常時LINEまたはメールにて受け付けています。お尋ね下さい。

2023年も宜しくお願い申し上げます。


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なんにもなかった

空が高く、目に鮮やかな紅葉が風に揺れるさまに思わず立ち止まる、そんな季節になりました。皆様いかがお過ごしですか。


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先月ご紹介した歌「Happy Ending」の続き、お母さんを怒らせてしまった(…と、少なくとも少年は自分のせいだと感じている)例の無駄遣いについて。

 

私たちが信じている正しさの中に、時々巧妙に紛れ込んでいる、世間からの、親からの、あるいは先祖代々のメッセージ。常識に思えて疑問も呈さなかったり、「そういうものだから」と思っていたりするものの中に、ずっしり腰を下ろしていたりします。しんどさに向き合うことになったとき、歴史や前の世代の人たちが、どんなふうに自分たちにメッセージを渡してきたのかは、やはり一顧しておく必要もあるでしょう。

写真は『暮しの手帖』昭和44年発行の古冊子で、たまたま友人の古書店仕入れられたものですが、なかなか面白いのでご紹介します。


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「なんにもなかったあの頃」と題して、戦後の家庭と生活をかえりみる第100号記念の記事。今なら当たり前に売っているような日用雑貨を、試行錯誤を通して作り出す一考察。現代ならこの栓付き盥も物干しも、サイズ種類ともに豊富ですが、当時のこれぞ元祖というような、工夫を凝らした手作りの逸品にちょっと唸ります。今や段ボールに置き換わり入手しづらいりんご箱、「これからは女のひとも金ヅチやノコギリを使うことを…」(本文ママ)と、椅子づくりも勧められています。

そのくらい何もなかった時代。どれほどの苦心があったことでしょう。

 

例えばこんな、なかった、という体験もなかなかその後への威力が大きい。欠乏を埋める努力も、貧すれば鈍する悲しみも、心に頭に深く深く刻まれます。

刻まれた負の感情は、いつか何かの折に次の世代へ手渡されます。言葉で、顔の表情で、メディアの文言、あるいは人の仕草や物の扱い方など、さまざまな形をとって伝えられていきます。私たちはとても敏感に受け学びます。

それだけに、何世代も超えてきたり、余りに強すぎるメッセージは、正論や、とんでもないタブー感も帯びてくるかもしれません。反対に、それを跳ね返そうとすることに、非常に大きな力を費やすこともあるでしょう。経済成長と消費の末のごみ問題、やや強迫的に捨てるブームの到来も、端はこの辺りにある気がいたします。

 

いずれも痛みや涙には違いない。記憶と体験。もちろん引き継ぐべきものも大いにあり、忘れてはならないものも数え切れません。

 

しかし問題は、その人が当然受けられる幸せをも、ためらわせるかもしれないような、不健全なメッセージであったとしたら?

過剰に働きをかけ、その人をむち打つような強い禁止や、影の命令になったとしたら。

 

もしもしんどいメッセージであるとすれば、一度立ち止まり、点検する必要があるでしょう。その教えに、誰の声が、どんな体験が関わっていそうですか。先祖代々、長い階段のはるか上のほうから、荷物がリレーのように降りてくるところを想像してもよいでしょう。

一度中身を確認してみてはどうでしょうか。そう、自分の代で。

どこからが本当にあなたが引き受けていきたいメッセージなのか、自分の人生のために選び直す点検です。

 

Happy Endingの少年の鳥のおもちゃは、本当はお母さんの痛み、そのまた前のお祖父さんお祖母さんの痛みに躓いて飛ばなかったのかもしれません。羽ばたけるのに、代々の傷心でまた助走をつけられないままに、この瞬間、少年の胸に抱かれたのかもしれません。

そして少年は大人になりました。

 

鳥を飛ばすのも、懐に守るのも、いずれも選択は少年にあります。

あの日の特別な幸せな気持ちを無駄と呼ばないで、どうかおもちゃをお店に返そうとしないで。痛み、庇ってきた少年にこそ飛ばせる鳥があるのだから。

真のHappy Endingのために。

Happy Ending

ひと雨降り、ひと風吹くごとに秋らしくなってまいります。お出かけも増える季節となりましたが、皆様いかがお過ごしですか。

 

ある日の小学校、運動会の練習らしいグラウンドから槇原敬之さんの曲が流れていました。先生世代の選曲でしょうか、マッキーのファンだった方もあったかもしれません。世間で騒がれた一事件もありましたが、それでもこうして小学校から流れてくるのを聴くにつけ彼には本当にいい歌が多く、子供たちの明るい掛け声にもよく合って、その日ものびやかに響いていました。

 

「Happy Ending」という槇原さんの曲をご存じでしょうか。ちょっとカウンセリングの一場面を思わせるような、回想のような歌で、かつて聞いた時から何年も忘れられずにいます。冬の歌ですが、今日はこの歌から一つお話を。

 

万博公園が舞台、入場ゲートの描写は共感を覚える空間の捉え方、景色がありありと目に浮かびます。

家族で遊びにきた少年が、うきうきと無邪気にはしゃぐ様子。パラソルを開いたような簡易な屋台のお店で売られていたものでしょうか、パタパタと羽を動かして飛ぶ鳥のおもちゃをねだって買ってもらいます。

ところがその帰りのゲート。何があったのでしょう、お母さんがご機嫌を悪くしてしまったよう、不機嫌に任せてお母さんの口からこぼれ出たなんらかの言葉か表情かが、少年の心をきつく締め付けます。

 

この歌ははじまりからすでに微かな不穏をはらんでいるのですが、「今日は特別」と「思い込んで」いる彼にとって今日の幸せは怖いほど。家族が笑って外出して過ごすこんな楽しい日が来るなんて。ところが・・・お母さんが怒り出してしまった。

 

“ゆき”は信じられないくらいの幸せ。

“かえり”はいつもの、お母さんを怒らせる僕。そう、また、僕が。

だから悪いのは僕なんだ。怒らせてばかりいる。いつもそれが自分。

 

小さな体と頭でその時一生懸命考えた少年は、この時買ったおもちゃを「無駄遣い」と結論しています。買って!とはしゃいで、無駄遣いをさせたから。特別な一日を毀してしまった、と震えます。

 

こんなことじゃだめだ、お母さんの、人の、相手の喜ぶことをまず先にできる自分にならなくちゃ…!

いつか家族で出かけて、その日のおわりまで笑顔で過ごせますように。

 

少々切なくなるような決意がなされています。

 

面接で時々お話することがある、幼時決断の捉え方も、この歌の少年に似たところがあるでしょう。こう在らねばと自ら意を決し、或いは心の中で目に見えないメッセージとして私たちを叱咤し、時には方向付ける「使命」「命令」。切なる願いには違いないのですが、強く駆り立てられればそれだけ、なんだか生き辛い人生の脚本を、気づけば組み立ててしまっていることがあります。

 

この歌は Happy Ending と題されてはいますが、果たして、少年はさらにその後、本当の幸せな幕引きを得たのでしょうか。願い叶ったという詞の通りそうであればと心から願うのですが、しかし一寸待って・・・人を喜ばせてあげられる自分になる、すばらしい奉仕の精神、人を思う優しさ。ただ、その一歩前に問うてほしい、彼自身の喜びはどこにあったのでしょうか。自由に羽を羽ばたかせる鳥の似姿をとった、あの時あの瞬間の喜びは? ・・・ほんの少しだけそれが気がかりです。

大人になった者として捉え直せば、この歌一つにも、幾つも幾つも別の風景が立ちあらわれてくることでしょう。お母さんを不機嫌にさせたのはなんだったのでしょうか。他の家族はどうしていたでしょうか。どうして彼は自分のせいだと、無駄遣いだと思ったのでしょうか。なんだかいろいろな想像をしてしまう一曲です。たかが歌、されど歌。秋の空に高く上がるマッキーの声が、こんなに柔らかいのに、幸せな結末と歌っているのに。

なのになんだかちょっと胸が痛そうで。

 

皆様はどんなふうにお感じになられたでしょうか。

無駄遣いについてはこのお題の続き、また月と稿を改めて。

今月もご予約はメールまたはLINEにて受付いたしております。忙しい毎日、少し一休みをしたいとき、気持ちを整えたいとき、どうぞお気軽にお問い合わせ下さい。お待ちしております。

ほうき草 (万博記念公園

 

湿り気

なお残暑が厳しく、皆様いかがお過ごしでしょうか。遠く起こる台風の進みに合わせて湿度の高い風も身心にまとわりつきます。

 

今日はそんな湿り気の話。

砂糖や食塩はどなたの台所にもあると思います。

砂糖も塩も、保存状態、とくに湿度によって、反対の条件で固まることがあります。

 

ちなみに砂糖には水分を、塩には乾燥を加えると元に戻ります。

先日喫茶店で、炒った米の入った食卓塩の小瓶など見てちょっとレトロな気分になったりしましたが、最近は珪藻土の容器や匙が出て、便利な時代になりました。

 

こころのお話をするときに気になるところは、そんなウェットな度合いです。

皆様は、こころの湿り具合、いかがでしょうか。ご自身を振り返って、気持ちをあつかうときに、湿りがある方か、それとも乾いている方か。綯い交ぜに、あるいは交互に入れ替わるか。どんなイメージでしょうか。

この喩えは十全ではないにせよ、こころには似たようなところがあります。

ウェットな感じというとマイナスのイメージを持つ方もおられるかもしれませんが、そうとは限りません。ある程度の調湿の感は意外と大切な働きがあります。

あまりに湿り過ぎると、食塩の瓶のように逆さにしても雪塊のように出てこなくなってしまいます。反対に暑苦しさの中で自らの甘さが溶け出す、さらに乾燥して乾ききれば、砂糖のようにかたまって、いざというときに岩のようになってしまいます。

自らと対面する時に、振ったり叩いたりしながらなのも、あちこち匙でガリガリ削るのも、大きな塊が転げ出すのも、どちらも少しつらいものです。

 

自分のこころと向き合う時には、風の通り道とともに、ほんの少しだけ、ウェットな感覚を大切にして頂ければと思います。砂糖や塩の細粒を思い、浸り濡れそぼらず、ごつごつ頑強に固まらず、あまりサバサバと風を吹かせすぎても粉が飛びます。できればほんの幾許かの湿り気を守りながら。

必要とあれば、時に霧雨にもなり、また瓶の中の炒り米にも徹して、相談室も何らかのお手伝いができればと思います。

風の音とともに清秀の秋が待ち遠しい時節になりました。今月も皆様のご予約をお待ちいたしております。

 

料金を改定しました(9/1~)

平素よりカナリアるーむをご利用いただき誠にありがとうございます。

諸般の事情により、9月1日(木)よりご利用料金を改定いたしました。(⇢改定後の面接料はご利用案内に更新・記載済)

誠に心苦しいお知らせではございますが、何卒宜しくお願い申し上げます。

 

 

 

盆あかりのみちしるべ

猛暑日がつづきます。
お元気でお過ごしでしょうか。

そろそろお盆の季節ですね。
きれいな御供え菓子も店頭で色とりどりに並び、目に涼しく映ります。私の故郷ではこの時期になると、盆灯篭というものを(これは置くのではなく)つりさげて迎え火とする風習があります。お盆の提灯や灯籠には各地様々ありますが、いずれも風情がありますね。

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お盆にちなんで、「白骨の御文」(はっこつのおふみ)という文章をご存知でしょうか。(俗人なので宗派や信仰に関しては本ブログの主旨ではありませんが、)今月は思い出と共に少し紹介したいと思います。

元々この御文は、浄土真宗の僧蓮如の手による、手紙の形式を取った教えといったところです。
去る11月金木犀のブログでも少し書きましたが、祖父を始め弔い事が重なっていた子ども時代は、たびたび法事や祥月命日のお勤めがありました。信心が深い訳ではありませんが、親戚の大人たちがしばしば集まる脇で正座して読経を聞いたり、見様見真似で合掌したり、幼いながらに、仏事で使われる独特の言葉に何か感じ入るところがあった、そういう幼少期でした。

私の居た所では、ご住職は親しみを込めて皆から「おじゅっさん」と呼ばれていました。おじゅっさんは、いつもホンダのカブに乗って、ぶぅんと音をたてながら田んぼの道をやってきました。仏壇前の座布団の横には、いっとうきれいな湯呑にお茶が淹れられており、当時の小さい私は、自分のとは違う、茶托に載ったお茶それも上等な蓋のついた湯呑のお茶を丁寧に開けて飲むおじゅっさんの姿が、それはもうめずらしくて、そっと興味深く見ていたものでした。

そのおじゅっさんが、いつも最後に読まれる「白骨の御文」というのがありました。これがなんとも言えない幽微の雰囲気、いつも陽気な大人たちも妙に静かに畳の目を見つめるようにうつむいて聞く締めくくりの時間で、これがあとあとまで私の心の深くに沈んでは浮かびを繰り返して、今に至ります。


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「夫れ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おほよそはかなきものは、この世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり。…」

と静かに始まる古文。人の世の無常。まだ7歳、8歳のころですから意味なんてまるで分かるはずもないのですが、繰り返し聞くうち…

「されば、朝(あした)には紅顔ありて、夕(ゆふべ)には白骨となれる身なり。既に無常の風来たりぬれば、すなわちふたつの眼たちまちに閉ぢ、ひとつの息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて桃李の装ひを失ひぬるときは…」

と続くこのあたりから、朝には紅顔、夕には白骨という言葉がだんだん頭に残るようになり、その後意味を解するようになるにつれ、切々淡々としたこの「文」は、特にお盆のこの時期よく思い出すのです。

 

我々は普段はひたぶるに、やるべき事、日々雑事、快不快の感、一分一秒に追われて暮らしているようなところがあります。しかし、例えばお盆のように、生と死、この世あの世という、より大きな流れの時間軸にふっと立たされる瞬間もまたあります。
一炊之夢、とも言うでしょうか。日常の生活において、喜びは言わずもがな、かようにとらわれ苦しんでいることもまた、過ぎ儚く消えゆく。あの世とこの世の接ぎ目に思いを致せば、(天変・自然災害のような一時に大多数が一様に受ける災厄などは別としても、)いま抱えている不快、苛立ち、憤懣、苦難すら、身から出た我妄我執に思えることすらある。

何故にこれほどこだわり、抗い、不必要な怒り悲しみ妬み、果ては罪悪感を手放せないのだろうかと。

自分はいったい何に、人生の大事な時間を浪費しているのだろうかと。

この世のすべては無常である、と白骨は語る。しかしだからこそ、この束の間の生に於いて、永遠ではなくうつりかわるはかない世を、どのように解釈して生きるのか、一度しかない人生にあなたなりの豊かさ、かけがえのなさを見つけられるのか。思い立つべき・やり直すべきはいつなのか。捨つべきものは何であるのか。そういうことを白骨に問われている。
盆のあかりが灯るこの季節には、そんなことを思わずにはいられないのです。


さて、御文の一番おしまいには結びの言葉があり、ご住職が「あなかしこ、あなかしこ」と、軽く嘆くような、しかしあたたかい発声で以って、本を軽く押し戴きしめくくるのが常でした。あゝつつしんで申し上げます、もったいない、有難いことでございます、そんな意味合いでしょうか。お勤めが終わると、笑顔で季節の雑談などされ、幼い私も、運動会は終わりましたか、などと問われたこともありました。そして、再び袈裟の袖をはためかせながら、カブでぶーんと去っていきました。妙に記憶に残る時間でした。

白骨に見つめられる、など想像すればちょっと怖いような気持ちもありました。小さかった頃、四十九日の間の晩は寝床で一人ぎゅっと布団を握りしめることもありました。おそらく成人してなお今もその恐れは同じこと。生死を語るは恐れ多い、人様の生き方にそばで関わることもしかり、その畏まる気持ちは変わらず…。

現在でも、街中を離れて地方へ行くと、たまにバイクのお坊さんをお見かけすることがあります。あっ…おじゅっさん、と呼びはしないけれども心の声が出ることがあります。

今から思うに、あの御文と「あなかしこあなかしこ」の結びに、随分助けられてきたような気がしています。

皆様はどんなお盆の思い出をお持ちでしょうか。

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ひときわ暑さ厳しい今年の夏、お盆休み、皆様どうぞ心静かに平らかにお過ごしになれますように。
15・16日はカナリアるーむは閉室いたしますが、予約受付は通常通りいたしております。ご希望日時を添えて、ご送信下さい。


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お盆の休室:8/15(月)・16(火)

お知らせ:

8/15(月)・8/16(火)は、カナリアるーむはお盆休みで休室いたします。

尚、ご予約の受付はメール・LINEにて常時行っております。

夜間・休日用の自動メッセージが応答する場合(LINE)でも、到着順に受付しております。どうぞ希望日時などを記載してご送信下さい。遅くとも翌日中には返信いたします。

宜しくお願いします。

 

無駄の間合い

暑い日が続きます、皆様いかがお過ごしですか。

この猛暑では仕事や勉強の意欲や食欲も出なかったりすることがあるかと思いますが、

「賢者は生きるために食べる、愚者は食べるために生きる」…生活していくため仕事と家の往復になったり、やるべきことに気持ちがとらわれる日々になってしまうと余計に気が滅入ります。ひとまず好きな冷たい飲み物一杯、好きな物一口から今日のためのエネルギーを体に入れましょう。自分らしさを暑さに溶かされぬ程度でよいから、なんとかこの夏をしのぎたいところです。

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このところ老親の体調見守りも兼ねて故郷を往復し、実家の片づけをする日々を送っているせいか、世間一般に<無駄なもの>といわれるような物が増えたのはいつごろからだったのだろうと考えることが多くなった。「ミニマリズム」が芸術の世界でなく日常生活に適用され、ミニマリストなどという個人のライフスタイルにまで及んできたのは、思えばわずかこの10年程だ。

自分が幼いときには、どこかへ旅行に行ったからとその町の名前の入った記念のキーホルダーであったり置物であったりをお土産としてもらうことも普通にあった。みなそれを喜んでいたと思う。食器もしかり。披露宴の引き出物、シリーズのお皿、地元銀行・金融機関のかわいらしい景品といった「もらい物」もよく見てきた。お祝い事で美しい柄の食器を贈られる喜びや、集める熱意やワクワク。あれは一体なんだったんだろうねえ、と母は眉を下げてちょっと困ったように笑っていた。たしかに消費の時代の果てと言わんばかりにこうしてごみとして処分するのは何とも言えない気分だが、母がその時、せめて楽しんで、心を躍らせる瞬間を持てていたのであれば、それはそれでよかったと感じるし、当時は全く気づかなかったがおそらく私もいくらかは、その雰囲気を分け与えられていたのだろう。

こういう片付けは、時代の風もいっしょにしまう気持ちでごみ袋の口を結ぶ。

 

すっきりとした住宅には不要なものがなく、人や自然にやさしく、さぞやスタイリッシュで素敵なのだろう。よく目にするが、要らない物はもらわない、むやみに贈らない、ギフトはもらう側がカタログ選択方式。床に物は置かない。家に溜めない。紙は捨てる、必要なら廃してデジタル化…いろいろと小さなところから、それも環境のために大切なことだ。

でも一方で、たとえば夏休みに、「おじいちゃんちに来るといろんなものがあって、おもしろいね。」「おばーちゃーーん、これなーに?」という子どもの声があがりそうな家、一見無駄なようだがとくに台所とか納屋なんかに道具が置いてある、そんな田舎の家が、実を言うと私は好きだったのかもしれない。いや、只のさびしがりなのか。作家の五木寛之さん的にいうと、人から無駄に思われても、そんなものに囲まれていると心がやすらぎ落ち着く、という人もあるらしい。そうかもしれない。

 

もらいもの、おくりもの、無駄なもの…という言葉でどうしてもちょっと心痛い思い出が一つある。

その日は知人宅へお礼の品を持って挨拶に行くという日であった。挨拶となれば多少緊張もし、菓子折りなどはすでに用意してあったが、出がけに親類が気さくに、家庭菜園のわきに植わっていた花も持っていかないか?と新聞紙に巻いて持たせてくれた。予想外の花ではあったが別段断る理由もないし、季節の花の手土産もよさそうに思えた。

先方は同世代の夫婦で、大都会の小さいが現代的なマンションの一室で、もちろん快く迎えてくれたのだが、この花が問題だった。お宅に花瓶がなかったのである。

今の時代、訪問マナーとして「花瓶に生けるお手間をとらせないためにも、生花は籠などアレンジメントを選び気遣うべし」などとよく聞くが、その頃にはまだそこまではなかった。私も先方もお互い若かった。花を受け取るも入れる物がなく立ち尽くし戸惑っているらしい奥様に、あわてた私がひとまず「あっ、ペットボトルの空容器あれば、それかバケツなどに水を張って挿して置いておきましょうか」…などと言ってしまったばかりに、困らせたのではないかと思う。「空ボトルはその都度ごみに出してしまっていて一本もありません…。」そちらのご主人が奥様をかばうように、「いやー、マンション住まいにバケツなんかありませんよ、今時掃除に使うこともないですし(笑)」と。私は余計なことを言ったと一人真っ赤になった。

つまるところ、摘んだばかりの花など、ちょっと迷惑なものを持参してしまったのである。人様の御宅でバケツを!なんて大きな声で言ってしまったし、少なくとも喜ばれなかった。その感触が恥ずかしい一日だったことだけを覚えている。

 

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(時代は戻ります)朝早くから、母が大きなユリの花を片手に玄関で立っていた。

朝の可燃ごみ出しに集積所へ行ったら、そばのお宅から声を掛けられて、「咲いたから、持って行って~」と、その場で切ったばかりのユリをどうぞと手渡されたらしい。大きくて見事なユリだった。

母が花瓶を探してくる間、くだんの赤面記憶がぶり返したが、そうだ、ここではバケツのひとつ、空の一斗缶でもなんでも、結構すぐ出てくるんだった、と思った。あの日私を恥じ入らせた新聞紙の花束は、「きれいだから持ってって」の親の世代のお裾分け感覚だった。

 

ああやっぱり。畑の隅からの一輪は、ちょっと不躾だが気取らない季節の一筆箋みたいなもの。花を一時投げ入れておく、バケツでも空容器でも、何か探せば出てくる空間。そういう無駄のある「間」に自分はこうもなじみがあるのだと言うことを知らされた朝だった。

あの若い日の花はうまく届けられなかったかもしれないが、あの日の痛みはやわらいでいる。こうして老親がここで、人から気軽に花をもらっていること、声を掛け手折ってくれる人がいること、よっこいしょと花瓶を探してくること、ガタつきながらも押入れをひっくり返して物の出てくるこの空気に、どこか私は安心し和んでいることに気づかされている。

 

無駄はあるかもしれない。だがこういう無駄と、その無駄がゆるされる間合いを、心の中に持っていても、悪くはないだろう。人と人、気持ちというのは、効率や合理性の枠外で動くことのほうが多いからだ。そんな気がしている。

 

あなたの中の価値ある無駄はどんなものですか。

これは頂き物ではないですが、庭先の印度浜木綿



摘む 残す

気ままブログも三年、未だ心もとないのですが今月も徒然にはじめます。これもどなたかのふりかえりのきっかけになればと思います。

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思えば(今年も植えたが)毎夏アサガオを話に挙げて、花は咲けば嬉しいのでつい写真など載せてきたが、本当のところ花ではない時期のほうが長い。
梅雨の前後の今頃になると、摘芯の時期になる。子蔓で旺盛に花を咲かせるためだが、ようやくのびてきた芽を、多少しのびない気持ちで摘む。
 
これをやるときいつも思い出す詩がある。茨木のり子さんの「私の叔父さん」の冒頭だ。
 

一輪の大きな花を咲かせるためには ほかの小さな蕾は切ってしまわねばならん 摘蕾(てきらい)というんだよ 恋や愛でもおんなじだ 小さな惚れたはれたは摘んでしまわなくちゃならん そして気長に時間をかけて 一つの蕾だけを育ててゆく  …

 
薔薇や芍薬はそうだろうし、恋愛にそんなところもあろう、特別好きな詩というわけでもないが、園芸用とは言え刃物を片手にすれば、この詩には毎度どきりとする。気を取り直し、支柱に巻きはじめたアサガオの蔓に鋏を入れる。
 

どちらかというと自分は、小さな思いがそうそう捨てられないほうで、先々月も書いたが古物も好き、骨董市など行けば延々と見ているのである。摘蕾どころか迷い守る蕾が多いたちかもしれない。
 
最近、実家のほうで少し大掛かりな片付けが必要になった。整理する只中の場の光景は、昭和、平成、令和と跨いで今時らしいとも思う。
 
しかしながら、この物たち、置いていたが実は忘れていたわけではない証拠に、この箱にはあれが入っているんだと、開ける前からもう分かるものも多い。
蓋を取れば、絵はがき、ミニチュアの置物飾り、旅先の土産、湯呑、薄紙の綺麗な便箋、様々なしゃれたデザインの出版社のしおり、などなど。しかしこうして見ると、捨てられなかった理由がはっきりしてくる。
 
途中なのだ。
好みもある。区切りをつけたものもある。しかし、多くは、とにかく思い半ばであったものだと思う。
挫折といえばそれまでだが、思い切れなかったり、その機が熟していないから一旦諦めた、ということもあっただろう。
 
絵はがきは旅先や美術館の、見ようとして見そびれた、行きそびれた場所。行けなくてせめて買った。もう一度行きたさ、確かめたさ。
しおりには、驚くほどその時の匂いがしみている。これはあの駅通にあった古書店の匂いだ。もう潰れて無い店だけれど。続きを買いに来よう、と他の作品を読もうとしていたことも思い出す。自分は引っ越した。店は畳まれた。まさかこんな電子書籍の時代が来て、探しに行かずとも部屋に寝転んだまま手に入るようになるとはあの頃思いもよらなかった。
 
こんな思い方は、少々しみったれていて、断捨離の某流からは笑われるのだろうか、今はそういう時代かもしれない。実際捨てるもののほうが多いのだ。俗塵に埋もれるべからず。
しかし、どうなのだろうか。
小さな惚(ほ)れを摘まないで、守り抱きながらの生き方も、あってよかろうと思う。それも力である。人に諭されたり批判されることではない。抱え切れないなりに、押しとどめしまってきた思いの、何が悪かろう。写真や手記や思い出の品を持参で相談室を訪れて下さる方も少なくない。事物を捨てずに来た人には、いつしか語る必要があろうし、諦められずにいること、実は今なお胸にあること、先延ばしたことの後悔、当時は大きい声では言えなかった事情も、やむにやまれぬ状況もあっただろう。その訳は聞くに価する。
 
蕾を摘むのはその後でもよいのではと思う。大きな一輪ならずとも、今はいっそ摘まずに、小さな花に育ててもよい。語り尽くして後に心に灯がともるなら。やり直しはここから。ご自身で区切るきっかけをと願う。
 
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コロナ制限も少しずつ緩和され外出もしやすくなってきました。感染対策は以前どおり続けておりますが、初めてご利用の方も、継続チケット(期限はございません)のご購入後に間隔の開いた方、しばらく様子を見ておられた方も、梅雨どきから夏にかけて暑くなるこの時期の心のメンテナンスにどうぞお気軽にお問い合わせください。ご予約お待ちしております。
 
 

5月 ゆっくり気持ちを整えて

ゴールデンウィークはいかがお過ごしでしたか。

今年はコロナの制限が解かれた休日となり、各所で賑わったと聞かれます。楽しくお過ごしになりのびやかにリフレッシュされた方もおられると思いますが、晴雨あり、寒暖ありの連休でもありましたね。普段と違った暮らし、場所、しばらく会っていなかった人の波に色んな意味で呑まれてちょっとお疲れ気味・・・という方もあるかもしれません。サービス業に従事されている方はとりわけ2年ぶり、久し振りに目まぐるしく忙しい連休であったことでしょう。後のお休みはどうぞゆっくりとなさって下さい。

ご家庭でも然り、いつもとは異なる家族の模様あり、心を遣う場面あり、溜まる家事もあり。連休明けの出勤時間帯、目にした数々の可燃ごみ置き場は、どこもなかなかの盛り上がりでした。(家事と一言では括れない)家庭運営を担った皆様も、本当にお疲れ様でした。

新しい生活形態になったばかり、この連休明け、お疲れが出ませんように、ゆっくりペースをつかんで慣れて行っていただきたいと思います。ちょっと気持ちを整えたいときは、お一人で無理せず相談室へお気軽にお問い合わせ下さい、お手伝いいたします。

 

5月に入って、今年も相談室の近くにあります本山街園の薔薇がきれいに咲いています。今日の写真はピエール・ドゥ・ロンサール、薔薇を数多く詠んだフランス詩人の名を冠した、大輪の優雅な花です。

それにつけても、毎年思うのですが、こまやかに庭園のお手入れをされている皆様に頭が下がります。たまたまこの日、大勢の園芸スタッフの方々が、暑い日差しの下、地面に身を低くして作業をなさっていました。すてきな薔薇時間をほんとうにありがとうございます。相談室のクライエントさんも私も、此処のお花に心をいやされております。

皆様もお時間があれば、この季節ならではの花のひと時をご覧になってみて下さい。

作業員の皆様にエールと感謝を…



ハンガーと節目

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物干しハンガーが壊れた。
プラスチック製のありふれたものだが、毎日よく使った。一つ減っただけなのだが、干すときにへんな違和感がある。干しながら、数字のマジックか?などとどうでもいいことまで考えた。体が覚えたあともう一枚分の物足りなさもあろうが、それだけでもない。しばらく違和感と付き合っている内、思い出したことがある。

 

人から言われないと自覚もないし自慢でもないが、物持ちがよい方なのか、使い出すと少々見栄えが悪くても壊れるまで使うくせがある。私の面接にいらっしゃった方でお気づきの方がいるかもしれないが、よくよく見ればバインダーも角面が剥げて中身の芯紙がはみ出しかけている(失礼お許し頂きたい)。この分野に入ったころからずっと使って、座学も演習も試験の日も、働き始めてからもこれを片手にしてきたせいなのか、馴染みがありすぎて今更どうにも捨てられないのである。

 

ハンガーに話を戻すと、これは18歳から使っている。100円均一などそのころには少なかったから、安物ではなく品質はそこそこよかったのかもしれない、日には褪せたがよく働いてくれた。思えばこれで何千枚干したのか。自分のはもちろん、家族のも干した。赤ん坊だった子の服も気づけばサイズが大きくなって、まさに壊れる当日までこれに干していた。

 

先日、近所の店でマスクの顔を寄せ合って小声でああだこうだと議論しながら日用品を買う学生さんと親御さんに出会った。なるほど新生活用品選びらしい。お母さんが、こっちがいいわよ、お嬢さんが、色が嫌だわとか、真剣にやっている。

 

あ、これだ、と気がついた。
このハンガー、その昔、一人暮らしをはじめる自分と付き添いの母とで駅前スーパーで買ったのだ。3本セットを2組、ピンク色。今なら白とか黒とかおしゃれでクールな色もあるが、ぼやけたようなピンクしか置いていなかった。当時女性がする家事とされているものの関連品は、たいがいピンクか、あっても水色だった。
ハンガーなんか、クリーニング屋さんの針金のでいいし、と言ったら、母は5つくらいはいるわよ、部屋狭いんだから何でも掛けておいたら?と。

 

ハンガーを買って、まるで練習のように試しで洗濯をして、部屋の長押だか鴨居だかに紐を張り、干した。その日、母と二人その下宿の部屋で並んで寝た。母は翌日帰った。

さほど別れを惜しむような仲良し母娘でもなかったし、人並みに反抗期もやって、田舎も世間の干渉も全部面倒でさっさと家を出たかったくせに、なぜかその日のことをやたらよく覚えている。翌日は新幹線までタクシーに乗った母の、後部座席から身をひねって手をふる姿も、妙にリアルに記憶している。私の方は映像ばかりであるが、母は母でもう少し感傷に来ていたとかで、もう随分経ってから「あれってほんとに別れって感じだったねえ」としみじみ言っていた。

 

人生の節目など、意外とささやかだったりもする。入学卒業や就職・冠婚葬祭などと大きい呼び名のつくことだけでなく、予期しないところにもぽっと現れたりする節目があるが、だいたいこの手のものはあとから気づく。
つまるところ自分の思春期の、あれがほんとうの最終日だったんだろう。

布団に仰向けになって眺めたあの夜の、室内干しの洗濯物。妙に静止画ばかり。ところが母のほうではちゃんと感情記憶が伴っている。その辺は、当たり前だが母は私よりもやはり経験ある大人だったということだろう。18の若造のほうは新生活への期待と不安に巻かれるの図であったが、それを表す言葉はない、おおかた年相応ではあるが、あの静止画はそうとは知らずに迎えた分離独立の瞬間活写だったのだろう。

 

こんな些細な風景に、実は人の思いが宿る。日常使いの物品に人の履歴が残る。
皆さんも、言葉は大事だが、言葉だけでもないとお気づきであろう。言葉にはならないが、なぜかせり上がってくる感覚、画像、心的動画はないだろうか。もしあるとすれば、それもふりかえる材料にしてほしい。あなたがあなたに、なにかを知らせようとしているかもしれない。

 

とそんなこんなで紆余曲折、ハンガーは結局テープを巻いてまた使っている。私の古物執心は相変わらず治りそうにない。まあ出発点からここまで人生共にしてきたのだから、せめて笑って労りつつ、末永く付き合ってゆこうではないか(?)。

 

今月も黄色い小鳥の看板を下げて、ご来室をお待ちしております。外も過ごしやすくなってきたこの頃、どうぞお気軽にお問い合わせ下さい。

 

青き踏み 建て直し

少しずつ春らしくなってまいりました。

◇3月はじめになるといつも思い出してしまう歌の出だし、最近Uruさんの声で耳に柔らかく届くカバー曲あり…よろしければ⇣

3月9日 by Uru

Sangatsu kokonoka 3月9日by Uru (kan/rom/eng lyrics) - YouTube

3月9日 - YouTube

 

さて年度末の3月、皆様はどのような日々をお過ごしでしょうか。

身近にこんな諺を座右之銘にしている人がいて、聞いた当初私は、青春時代の挫折も老年期の環境変化も、どちらもなかなか辛そうなものだが…と半知半解でもあったのですが、しかし今のような社会時勢、ある意味人生はそういう局面をいつも有しているのかもしれない、と思うようになった今日この頃です。

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カウンセリングを受けてみようと思うに至るきっかけは、多くの方が、「見直し」と「見通し」を切に求めてのことのように感じます。よしこれで行こうと思っても、人生には思わぬ出来事、学校や仕事を移ったり、体調良し悪しがあったり、出会いも別れもあり、そこには喜びも失意も諍いもあり、年を経れば落ち着けるものと期待してみるけれども存外にそうでもなく、こうしてみると老いも若きも日々破壊と建設の繰り返しかもしれません。その時は頓挫したかに思えても、どんな再出発になるかは誰にも決められない、安泰安寧を求めても、それが最終形とは限らない。凝り固まらず、柔軟にあれと願い、いずれにしても挑む先は自分自身ということになるのでしょうか。

面接に訪れる皆様は、どなたもなにかの節目、なにかからの脱却、なにかの小さな気づきをお持ちの方ばかりだと感じます。

 

例えばイメージしてみます。

今はそこはまだうっすらと草に覆われた地面かもしれません。はたまた、まだ前の建造物が残っているのやもしれません。どこからの作業着手となるか、お一人お一人が今ここでの気持ちにじっくりと向き合ってゆかれます。面接室では皆様とともに私も共に足場を組んでいきます。建築前に設けられ、作業する私達にはなくてはならないものですが、いずれは取り払われていく足場です。行き詰まるときは、足場の方ではなく、建物のほうこそを見ていきましょう。

どんな破壊と建設がある/あったでしょうか。

なにが破壊であり、なにが建設となるでしょうか。

 

常日頃、お一人お一人が気づきに向かい合おうとする勇気と、自ら掴まれたその契機に深く敬意を感じながら、今月もご予約をお受けしております。ご相談内容はどのような小さなことからでも結構です。どうぞお気軽にお問い合わせください。

 

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ヒヤシンス 球根から花芽がふくらんできました

 

 

 

 その後

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咲きました❀

 

 

お知らせ:感染対策(2022年2月〜)

変異株感染の拡大が続いておりますが、相談室は通常通り受付いたしております。

換気、マスク着用、消毒液などを基本に、面接時の距離はテーブルを挟んで最低でも130cm〜150cm(それ以上も可)、更に正面でなく斜めに着席できます。椅子の位置はクライエントさんのほうで好きな向き・角度にして動かして頂けます。

このような時期ですので、予約はしたけれども、ご自身ご家族問わず体調の変化、感染や外出の不安(漠然としたコロナ不安でも構いません)などお感じになったという場合は、当日お約束の時間前までにご連絡があれば、変更やキャンセルに応じております。遠慮なくお申し出下さい。

まわり道

ひょんなことから、学生時代にある講義でお世話になった先生が他界されていたことを知りました。忘れていたのに、そのお名前を見た途端に甦ってくる、その先生との数分間の会話を思い出しました。
一般教養科目での書道講師の先生でした。
旅立たれるにはまだまだお若かったはず、あとから知るに、いろいろと多方面で活動的に作品をお出しになっていた方だそうで惜しまれていました。


美術系でもない私の学部内の般教で書道、というのはちょっと異色の科目でした。同期の友人が「習字道具なんて持ってきてどうしたの?そんな授業あったっけ?」と言うほどにひっそり開講。私も、課程修了に必要単位だから…という理由の履修でした。
普段なら割と四角四面な授業をしている講義室で、右や左に半紙や古新聞がひらひら翻り、墨の匂いがたちこめる、傍目には文化祭みたいでちょっと面白い光景だったかもしれません。 

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先生は精力的な方で、中国の長い歴史からはじまる講義の傍ら、学生たちの書いたものを廊下にしゃがんでせっせと並べて乾かすのを手伝い、一人一人の硯の横でちょっと軽い会話をしたり、アドバイスをくださったり、という接し方でした。ですから私も先生との接触はせいぜい2〜3分、その程度だったはず。


あるとき自由課題で、自分で好きに言葉を選んで大判紙に書くというお題が出されました。横書きもOKということで留学生などはご自分の母語で書かれている方もいました。
散々迷って私が選んだのは四行で、
「純粋を追うて
 窒息するよりは
    濁っても
 大きくなりたいのである」
そう、たしか太宰治。記憶を総動員したら「懶惰の歌留多」という短篇だったと判明。作品名はど忘れしていたのに、この一文だけは忘れていなかったから、よほどそのときの私は泥中の蛙みたいな心境だったのでしょう。進退を悩んでいました。理想より目の前の現実、親世間と自分、夢より金、いや金より本、本より経験、みたいな独り乱戦。 


濁、の字は不格好で大ぶりになって気に入らなかったという映像が瞼にあるので、まあ駄作。自分の淀みが筆に現れれば、下手より恥ずかしい。


皆を見回りつつそばに来てそれを古新聞に挟んでくれた先生が、ひとりごとのように、いや、しかし私の顔も確かに見ながら「ふうん…そうかー。ぼくは、できたら純粋で居りたいけどな。濁っても大きく、か。」


あれ?と思いました。先生は純粋を目指してる、窒息せず、濁らないほう?清流?純粋さは、大人になるとだんだん捨てていくんだと思っていたけど違うのか?
心で瞬間思っても返せる語彙もその時の私にはなく、不思議な感触を以後長く記憶することになりました。


細かいやり取りはまるきり忘れて、ただその清濁の問いをのみ一人抱えてその後を歩くことになりました。心願かけてもやっぱり、流れは澄まずに濁りの中、泥まみれ結構、清濁相併せ呑めばそのうち腹も下さなくなるんだろう、拘泥、そういう道のりでした。


先生の名が波紋をついて長くあとを引く。遅れてきた宿題のように、「大きくなりたい」と抜き書いたあの時の気持ちは何だったかということまでもが、急に迫り上がる。

だれかに申し訳なく思いながら生きるのはおかしいな、とか、お金をなんとかせねば、から始まって、興味のある分野に打ち込みたいとか、外国で生活したい、とか・・・あの頃えがいていたことは際限なくありましたが、結局、若い私が自分で思い込んでいた、なろう、なろうとしていた先の「大きさ」はあまり意味がなかった。
それより大事だったことは、藻掻きながらも泥中を進むこと、そのもののほうだった。


そして、それが結果的に純粋さということだった。


どこからか機会を得て、毎年行き続けている書道展があるのですが・・・よくよく考えたら、そのきっかけは、この先生だったのです。思い返せば、最初の展覧会は、授業で指示された夏季休みの課題。興味あるなしは兎も角「その招待はがき持ってここへ来なさい」と言われるままにバラバラと会場に集まって自由に観覧し、ちょこっと挨拶したら勝手に散り散り帰る学生たちの一人。単位のためだし、という気持ちで、ただただ訪れた展覧会。そんなことすら忘れていた。
それが、実は今の自分を形作るパズルの一片だったことに気づいたのはこんなに年を経てから。専攻科目でも何でもなかった、半ばしょうがなく取っていた授業の、書道の先生から、随分とその後の人生で考える材料をもらっていたのだろうと思う。

壮年の先生が、清濁の分別に囚われる私を前に、純度を求めるような言葉を口にされたあの時、もっと聞いておけばよかった、と今にして思う。書道家として、墨の濃淡や筆の潤渇を扱う者として、きっと思いをお持ちであったはずであるから。
諸々削ぎ落としていけば、筆も墨も向き合う題目も、全てが混濁の中から絞り出た素の思い。呼吸を整えて、留める。何かを願う。思いを載せ、筆を運ぶ、息をか細く流す。時には一息に吐く。そういう息遣いのあとを、多分私は作品の上に毎年求めて行っているような気がする。人の人生に似ている。カウンセリングの世界に重なるような気がする。何かを筆勢に確かめるようだ。

今頃になって、先生の名からそれを突如思い知らされることになり、行き着いた己の立ち位置にあらためて、驚く。


もう尋ねるすべもなく、思い出を共有する友もない、勉学の本業でも、本筋でも、本意でもなく、まわり道のように思えたことが、後でこんな風に自分という絵の大事な一部をかたどってくる。そういうことがあると思います。一瞬ではあったけれど、あの日の独り言とまっすぐこちらの目を覗きこんだ先生に、遅すぎる感謝を込めまして。

 

皆さんにはどんなまわり道がありましたか。

 

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