カナリアるーむ こころの相談室

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踏まれても

時節柄バレンタインデーや職場の異動、引越、卒入学園の贈り物用にであろう、和蘭陀蓮華(オランダゲンゲ)とかトリフォリウムなどの名で、四つ葉のクローバーが出揃う園芸品種の鉢を見かけるようになった。なるほど葉っぱが日向に揺れる様は贈り物に相応しい愛らしさがある。

 

四つ葉のクローバーは幸せのお守り…?少女時代に漫画雑誌で見たそれにとりあえず憧れてはみたものの、生まれ故郷の田舎ではついぞ見つけられたことがなく、そんなものは多分嘘だ、幻だろうと小さい私は探すことを諦めた。

月日過ぎて大人になり、連日の育児で頭ボケボケ体もボロボロのある日、わが子がエンドレスに遊具で遊ぶのをじりじり見守る公園で、ふと足元に目を落とせば、あれ?あれあれ。あるわ、あるわ…立て続けに見つかったのを、呼び寄せた子とともに半ば歓喜しながら摘み帰った。

気づけば公園にしゃがみ込むような機会もあまり無くなってしまったが、視野も狭かったであろう幼い私が、存在しない!と決め込んだ四つ葉は、人や動物或いは車輪などに踏まれたり薬剤がかかるような場所に育つ株、成長する葉の原基とよばれる部分にストレスや損傷を経験した株によく出現するとされている。さほど千切られる機会もないふる里の休耕田に比べれば、都会の公園は人に犬に車によく踏まれて出現率も上がるのかもしれない。

 踏まれても根強く忍べ道芝の 

 やがて花咲く春の来るまで

詠み人知らずの道歌があるが、幸せの大もとは畢竟、傷つきの経験を大いに内包しているということになるのだろうか。

ふと思う。何をもってそう呼ぶのかも極めて相対的なもの、それが「幸せ」というものだが、寒いながらも近づく春を前に、自分にとって忍ぶる冬とはなんだろうか、どんな道の芝草であったろうか、なにを忍んできたか。自分にとっての春とはいつか、育て守り咲かせようとする/したものはあるか。納得や目標を、もう一度抱えやすい形で抱き直したい季節である。

いずれにせよ道の草のように傷つく我々であるのならば。人知れず、やはり痛むのだから。せめてその傷や痛みをライフジャケットとして織り纏いながら生きてゆけないか。

無いと思っていれば意外なところにあったりし、求めることに躍起であれば見つからないのに力を抜いた瞬間におとずれたり、あるいは時代とテクノロジーによって拍子抜けするほど容易く出合ってしまったりする幸せもある、予測など立たぬ今日この頃である。

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年明けの厳かさはいつしか日常に紛れ、凍える雪の日もあり、試験の時期でもあり、年度末を前にそぞろ落ち着かない時節になってまいりました。気持ちも上下しやすいときです。自然の中の花芽のほころびに倣うように、少し肩の力を抜きながらお過ごし下さい。

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昨年のヒヤシンス球根から、今年も徐々に蕾が膨らんできました。