空が高く、目に鮮やかな紅葉が風に揺れるさまに思わず立ち止まる、そんな季節になりました。皆様いかがお過ごしですか。
先月ご紹介した歌「Happy Ending」の続き、お母さんを怒らせてしまった(…と、少なくとも少年は自分のせいだと感じている)例の無駄遣いについて。
私たちが信じている正しさの中に、時々巧妙に紛れ込んでいる、世間からの、親からの、あるいは先祖代々のメッセージ。常識に思えて疑問も呈さなかったり、「そういうものだから」と思っていたりするものの中に、ずっしり腰を下ろしていたりします。しんどさに向き合うことになったとき、歴史や前の世代の人たちが、どんなふうに自分たちにメッセージを渡してきたのかは、やはり一顧しておく必要もあるでしょう。
写真は『暮しの手帖』昭和44年発行の古冊子で、たまたま友人の古書店で仕入れられたものですが、なかなか面白いのでご紹介します。
「なんにもなかったあの頃」と題して、戦後の家庭と生活をかえりみる第100号記念の記事。今なら当たり前に売っているような日用雑貨を、試行錯誤を通して作り出す一考察。現代ならこの栓付き盥も物干しも、サイズ種類ともに豊富ですが、当時のこれぞ元祖というような、工夫を凝らした手作りの逸品にちょっと唸ります。今や段ボールに置き換わり入手しづらいりんご箱、「これからは女のひとも金ヅチやノコギリを使うことを…」(本文ママ)と、椅子づくりも勧められています。
そのくらい何もなかった時代。どれほどの苦心があったことでしょう。
例えばこんな、なかった、という体験もなかなかその後への威力が大きい。欠乏を埋める努力も、貧すれば鈍する悲しみも、心に頭に深く深く刻まれます。
刻まれた負の感情は、いつか何かの折に次の世代へ手渡されます。言葉で、顔の表情で、メディアの文言、あるいは人の仕草や物の扱い方など、さまざまな形をとって伝えられていきます。私たちはとても敏感に受け学びます。
それだけに、何世代も超えてきたり、余りに強すぎるメッセージは、正論や、とんでもないタブー感も帯びてくるかもしれません。反対に、それを跳ね返そうとすることに、非常に大きな力を費やすこともあるでしょう。経済成長と消費の末のごみ問題、やや強迫的に捨てるブームの到来も、端はこの辺りにある気がいたします。
いずれも痛みや涙には違いない。記憶と体験。もちろん引き継ぐべきものも大いにあり、忘れてはならないものも数え切れません。
しかし問題は、その人が当然受けられる幸せをも、ためらわせるかもしれないような、不健全なメッセージであったとしたら?
過剰に働きをかけ、その人をむち打つような強い禁止や、影の命令になったとしたら。
もしもしんどいメッセージであるとすれば、一度立ち止まり、点検する必要があるでしょう。その教えに、誰の声が、どんな体験が関わっていそうですか。先祖代々、長い階段のはるか上のほうから、荷物がリレーのように降りてくるところを想像してもよいでしょう。
一度中身を確認してみてはどうでしょうか。そう、自分の代で。
どこからが本当にあなたが引き受けていきたいメッセージなのか、自分の人生のために選び直す点検です。
Happy Endingの少年の鳥のおもちゃは、本当はお母さんの痛み、そのまた前のお祖父さんお祖母さんの痛みに躓いて飛ばなかったのかもしれません。羽ばたけるのに、代々の傷心でまた助走をつけられないままに、この瞬間、少年の胸に抱かれたのかもしれません。
そして少年は大人になりました。
鳥を飛ばすのも、懐に守るのも、いずれも選択は少年にあります。
あの日の特別な幸せな気持ちを無駄と呼ばないで、どうかおもちゃをお店に返そうとしないで。痛み、庇ってきた少年にこそ飛ばせる鳥があるのだから。
真のHappy Endingのために。