カナリアるーむ こころの相談室

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かぎる くぎる

暑さは長引きそうですが、9月になりました。交差点で信号待ちをするランドセルの子どもたちやリュックの学生さんの群れ、仕事や家庭の雑事をこなしながら徒歩で…車で…自転車で…道を急ぐ大人の方々、長い夏休みが終わって、街の表情も時間の刻み方もまた少し変わったように見えます。

秋はじめ、突然の雨を連れてくる空模様と同じく、ご自分の心模様もていねいに変化を見守っていきたいとき。日々を刻みながら「限る」「区切る」という心の整頓方法はいかがでしょうか。

 

もしあなたがこのところ、なにか大きなものをかかえてお疲れだったなら。

これからずっと?どうなるのだろう?先へ先へと思い、慎重が過ぎて特に不安の前乗りをすると苦しくなる。でも30分、1時間でもよい「区切る」。そして自らに声をかける。「今日一日」と限ってみる。「今日“だけ”○○でいよう」やさしい言葉で、心に留める、それに努める。
時間を限ったら小休憩も入れましょう。好きな音楽、本でもコミックでも、散歩や、おやつやお茶の時間でも。しんどいからこそこれ以上自分を痛めるのはやめ、この先迎える時間を“小単位”に分け、自分の手に持たせ直します。区切ることで小さな見通しが立つかもしれません。
 
空間のほうはどうでしょうか?ヴァージニア・ウルフという作家は、「ものを書こうと思うなら、お金と鍵のかかる部屋が要る」と言いました。なるほど。同様に、茨木のり子氏はこれを「行方不明の時間」として、詩に表しました。
住居・家屋事情やご家族の事情で、そうそうご自身の部屋をお持ちになれない方もおられるでしょう。また、逆に部屋はあるけれど、心理的な安らげる空間を取るのが難しい場合もあります…それは大変気持ちの塞ぐことですが、こういうときも、「限る/区切る」ことを念頭に置く必要があるかもしれません。物理的な場がないからこそ、どこで自分の心を「確保」するか。心の線をきちんと太字罫線にできていますか?

その時間をわずかでも、どうすれば取れそうか、自販機の前でもいい、お茶を入れた湯呑みを前にする間でもよい、ベランダでもよい、駅の端っこのベンチでもよい、この○分、○○時間を区切る。

今日という一日だけ。

よい自分で在れますように。

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昔、出会った方でこのような方が居られました。「自分はスーパーの行き帰りに、喫茶店やファストフード店・イートインのようなところで、なんの用もないけど座ってボーっとするのが好きなのだ」と。まだガラケー全盛期、女性の就業環境ももうひとつ、男性の育休など実体を伴わない時代のころ、この方は家事の担い手でした。あるとき同居のご家族から「スーパーへ行くだけなのに長い、一体何をしているのか。どこかブラブラほっつき歩くのか」と問われて、その瞬間、随分苦しくなったそうです。「別に束縛もアビューズも受けてはいないし、何の事はないただの主婦ですが、」と前置きしつつため息をつき、実はそのお店でぼんやりする僅かな時間に救われていたようです。

 

ああ…と共感する方もいらっしゃるかもしれない。無論イートインスペースなどより、たとえば自然の中で鳥の声、川の音を聞くほうが本来はずっと心休まったはずだとは思う。でも日々の雑事、買い物というなかなか重い労働の途中、この方はその動線上、食料品コーナー脇の堅い椅子の上だったからこそ時間をひねり出すことができたわけで、むしろ喧騒の中、誰からも注視されず放っておかれて頭を休めることが、切実に必要だったのだろうと思う。

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家族や親しい人、仕事や活動の仲間、どんな間柄であれ互いの身の置き方は、その人その人で安心の距離というものが異なります。自分ならどの空間どんな距離感がいいのか、そこは他人に譲らずに考えてみたい。自分の心の境界線を守りきちんと区切ることは、いずれその内で力を戻し、満ちていく自分を見つめることにもなります。それは寂しさではなく豊かな孤独。先を焦ることなく、いまは限られていてもいずれ将来満ちている自分で少しずつ拓いていけるほうが、真の自信になるのではないでしょうか。

3分だけ、呼吸をゆっくり。

5分だけ、外の風の音を聞く。

10分だけ、この課題に向き合う。

今日一日だけ、決めた事一つ。

今日一日だけ、誰かに/自分に、優しく。

面倒に感じることがあっても、一日と限ってみれば、なにか可能ではと思います。