カナリアるーむ こころの相談室

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盆あかりのみちしるべ

猛暑日がつづきます。
お元気でお過ごしでしょうか。

そろそろお盆の季節ですね。
きれいな御供え菓子も店頭で色とりどりに並び、目に涼しく映ります。私の故郷ではこの時期になると、盆灯篭というものを(これは置くのではなく)つりさげて迎え火とする風習があります。お盆の提灯や灯籠には各地様々ありますが、いずれも風情がありますね。

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お盆にちなんで、「白骨の御文」(はっこつのおふみ)という文章をご存知でしょうか。(俗人なので宗派や信仰に関しては本ブログの主旨ではありませんが、)今月は思い出と共に少し紹介したいと思います。

元々この御文は、浄土真宗の僧蓮如の手による、手紙の形式を取った教えといったところです。
去る11月金木犀のブログでも少し書きましたが、祖父を始め弔い事が重なっていた子ども時代は、たびたび法事や祥月命日のお勤めがありました。信心が深い訳ではありませんが、親戚の大人たちがしばしば集まる脇で正座して読経を聞いたり、見様見真似で合掌したり、幼いながらに、仏事で使われる独特の言葉に何か感じ入るところがあった、そういう幼少期でした。

私の居た所では、ご住職は親しみを込めて皆から「おじゅっさん」と呼ばれていました。おじゅっさんは、いつもホンダのカブに乗って、ぶぅんと音をたてながら田んぼの道をやってきました。仏壇前の座布団の横には、いっとうきれいな湯呑にお茶が淹れられており、当時の小さい私は、自分のとは違う、茶托に載ったお茶それも上等な蓋のついた湯呑のお茶を丁寧に開けて飲むおじゅっさんの姿が、それはもうめずらしくて、そっと興味深く見ていたものでした。

そのおじゅっさんが、いつも最後に読まれる「白骨の御文」というのがありました。これがなんとも言えない幽微の雰囲気、いつも陽気な大人たちも妙に静かに畳の目を見つめるようにうつむいて聞く締めくくりの時間で、これがあとあとまで私の心の深くに沈んでは浮かびを繰り返して、今に至ります。


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「夫れ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おほよそはかなきものは、この世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり。…」

と静かに始まる古文。人の世の無常。まだ7歳、8歳のころですから意味なんてまるで分かるはずもないのですが、繰り返し聞くうち…

「されば、朝(あした)には紅顔ありて、夕(ゆふべ)には白骨となれる身なり。既に無常の風来たりぬれば、すなわちふたつの眼たちまちに閉ぢ、ひとつの息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて桃李の装ひを失ひぬるときは…」

と続くこのあたりから、朝には紅顔、夕には白骨という言葉がだんだん頭に残るようになり、その後意味を解するようになるにつれ、切々淡々としたこの「文」は、特にお盆のこの時期よく思い出すのです。

 

我々は普段はひたぶるに、やるべき事、日々雑事、快不快の感、一分一秒に追われて暮らしているようなところがあります。しかし、例えばお盆のように、生と死、この世あの世という、より大きな流れの時間軸にふっと立たされる瞬間もまたあります。
一炊之夢、とも言うでしょうか。日常の生活において、喜びは言わずもがな、かようにとらわれ苦しんでいることもまた、過ぎ儚く消えゆく。あの世とこの世の接ぎ目に思いを致せば、(天変・自然災害のような一時に大多数が一様に受ける災厄などは別としても、)いま抱えている不快、苛立ち、憤懣、苦難すら、身から出た我妄我執に思えることすらある。

何故にこれほどこだわり、抗い、不必要な怒り悲しみ妬み、果ては罪悪感を手放せないのだろうかと。

自分はいったい何に、人生の大事な時間を浪費しているのだろうかと。

この世のすべては無常である、と白骨は語る。しかしだからこそ、この束の間の生に於いて、永遠ではなくうつりかわるはかない世を、どのように解釈して生きるのか、一度しかない人生にあなたなりの豊かさ、かけがえのなさを見つけられるのか。思い立つべき・やり直すべきはいつなのか。捨つべきものは何であるのか。そういうことを白骨に問われている。
盆のあかりが灯るこの季節には、そんなことを思わずにはいられないのです。


さて、御文の一番おしまいには結びの言葉があり、ご住職が「あなかしこ、あなかしこ」と、軽く嘆くような、しかしあたたかい発声で以って、本を軽く押し戴きしめくくるのが常でした。あゝつつしんで申し上げます、もったいない、有難いことでございます、そんな意味合いでしょうか。お勤めが終わると、笑顔で季節の雑談などされ、幼い私も、運動会は終わりましたか、などと問われたこともありました。そして、再び袈裟の袖をはためかせながら、カブでぶーんと去っていきました。妙に記憶に残る時間でした。

白骨に見つめられる、など想像すればちょっと怖いような気持ちもありました。小さかった頃、四十九日の間の晩は寝床で一人ぎゅっと布団を握りしめることもありました。おそらく成人してなお今もその恐れは同じこと。生死を語るは恐れ多い、人様の生き方にそばで関わることもしかり、その畏まる気持ちは変わらず…。

現在でも、街中を離れて地方へ行くと、たまにバイクのお坊さんをお見かけすることがあります。あっ…おじゅっさん、と呼びはしないけれども心の声が出ることがあります。

今から思うに、あの御文と「あなかしこあなかしこ」の結びに、随分助けられてきたような気がしています。

皆様はどんなお盆の思い出をお持ちでしょうか。

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ひときわ暑さ厳しい今年の夏、お盆休み、皆様どうぞ心静かに平らかにお過ごしになれますように。
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