カナリアるーむ こころの相談室

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海杳

7月になりました。梅雨の晴れ間の暑い日々、皆様いかがお過ごしですか。

コロナ明けの夏、海岸やプールなど水遊びを楽しみにしている子どもたちも多いことでしょう。西へ向かう海辺の沿線は、窓から目に入る水面が眩しくなりました。

今月は海にまつわる言葉から。

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「海杳」

かいよう、と読みます。そもそもどこで当たった言葉だったかもう思い出せませんが、暗く奥遠い、海のように広く暗い世界という意味合い。動きはありながら何か鎮まるような語感からか、心の深部に長く残る好きな言葉の一つです。

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一つ別の説話を差しいれますが、――大海に住む目の悪い亀の話。その亀は一生のうち一度だけ深い海の底から水面に上がってくるという。水面にはたった一つ木片が浮かんでおり、その木片には小さなうろ、小さな穴がある。これは喩え話で、人生という場で起こる諸々は、その亀が海面にたった一つ浮かんだ木の穴に顔を入れようとするような、非常に稀な千載一遇であると。そのような話があります。

この説話と海杳がいつも伴って想い起こされます。

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はじめこの亀の説話を知ったときはどんなふうにとらえたらいいか(悟りとは斯くも得難しと訓戒めいたことを聞かされても自分の中ではすぐには反響せず)そのときはただ気が遠くなる心地でした。しかしだいぶ後になって、自分の心や本意はこの亀のように、生きるという旅の途上で海面にほんのいっとき顔を出す、それがやっとと言うほどの顕われ方かもしれないと解釈をしてみるようになりました。

己の人生の長さ尺度では到底及ばぬ大海です。百年に一度浮かび上がるというその時に、我々はどこへ上がり何を知覚するだろう。水面に出した顔は?どんな表情だったろう。

いずれにせよまた大海に戻ってゆかねばならない。

このわずかな一遇のいっときに自分は生きている。ますます、十中八九自分は木片の穴に至れる気がしないのだが…それでも?もしかしたら浮木の端っこに頭くらいはぶつけたられたかもしれぬ。それに気づけたか?気づいていなかったかもしれない?

そう考えると、不思議にこのところの人生、出会ってきた出来事、その一つずつが心によぎる。狭いながらも色々な方や機会に遇っている。愚かは愚かなりに胸を突かれては、心に染みわたる瞬間も貰ってきたと思う。あれから幾歳月。長いようで過ぎてしまえばあまりに短くあまりに早い。大海の一滴とはこのことなのか。たとえそうであったとしても、喜びも悲しみも、複雑な表し難い感情も感謝も、亀の甲羅を打つ波のごとく、いま確かに自らを巻く。

眼前の海にはなにか大きな力の存在があり、適度な抵抗を与えられながら、ゆるり手探り模索の自分たち。悲しいような、延々と途方もないこの海を懸命に藻掻いている。押し出す手足の振りがある。

そこにせめてささやかな、われわれ一人ひとりの力の漲りを、つく息を、そして流れた汗や涙を感じては思う。いつか自分は忘れても、また人から忘れられても、この広い海のどこかに、生きること、出会うことの不思議を溶かしながらゆこう、と。 

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影のある言葉ではありますが、眩しい海を見ると同時に思う「海杳」。重さも温かさも全部を包み込むこの海杳を、私たちは泳げるところまで泳ぎきるしかないような気がしています。

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