カナリアるーむ こころの相談室

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無駄の間合い

暑い日が続きます、皆様いかがお過ごしですか。

この猛暑では仕事や勉強の意欲や食欲も出なかったりすることがあるかと思いますが、

「賢者は生きるために食べる、愚者は食べるために生きる」…生活していくため仕事と家の往復になったり、やるべきことに気持ちがとらわれる日々になってしまうと余計に気が滅入ります。ひとまず好きな冷たい飲み物一杯、好きな物一口から今日のためのエネルギーを体に入れましょう。自分らしさを暑さに溶かされぬ程度でよいから、なんとかこの夏をしのぎたいところです。

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このところ老親の体調見守りも兼ねて故郷を往復し、実家の片づけをする日々を送っているせいか、世間一般に<無駄なもの>といわれるような物が増えたのはいつごろからだったのだろうと考えることが多くなった。「ミニマリズム」が芸術の世界でなく日常生活に適用され、ミニマリストなどという個人のライフスタイルにまで及んできたのは、思えばわずかこの10年程だ。

自分が幼いときには、どこかへ旅行に行ったからとその町の名前の入った記念のキーホルダーであったり置物であったりをお土産としてもらうことも普通にあった。みなそれを喜んでいたと思う。食器もしかり。披露宴の引き出物、シリーズのお皿、地元銀行・金融機関のかわいらしい景品といった「もらい物」もよく見てきた。お祝い事で美しい柄の食器を贈られる喜びや、集める熱意やワクワク。あれは一体なんだったんだろうねえ、と母は眉を下げてちょっと困ったように笑っていた。たしかに消費の時代の果てと言わんばかりにこうしてごみとして処分するのは何とも言えない気分だが、母がその時、せめて楽しんで、心を躍らせる瞬間を持てていたのであれば、それはそれでよかったと感じるし、当時は全く気づかなかったがおそらく私もいくらかは、その雰囲気を分け与えられていたのだろう。

こういう片付けは、時代の風もいっしょにしまう気持ちでごみ袋の口を結ぶ。

 

すっきりとした住宅には不要なものがなく、人や自然にやさしく、さぞやスタイリッシュで素敵なのだろう。よく目にするが、要らない物はもらわない、むやみに贈らない、ギフトはもらう側がカタログ選択方式。床に物は置かない。家に溜めない。紙は捨てる、必要なら廃してデジタル化…いろいろと小さなところから、それも環境のために大切なことだ。

でも一方で、たとえば夏休みに、「おじいちゃんちに来るといろんなものがあって、おもしろいね。」「おばーちゃーーん、これなーに?」という子どもの声があがりそうな家、一見無駄なようだがとくに台所とか納屋なんかに道具が置いてある、そんな田舎の家が、実を言うと私は好きだったのかもしれない。いや、只のさびしがりなのか。作家の五木寛之さん的にいうと、人から無駄に思われても、そんなものに囲まれていると心がやすらぎ落ち着く、という人もあるらしい。そうかもしれない。

 

もらいもの、おくりもの、無駄なもの…という言葉でどうしてもちょっと心痛い思い出が一つある。

その日は知人宅へお礼の品を持って挨拶に行くという日であった。挨拶となれば多少緊張もし、菓子折りなどはすでに用意してあったが、出がけに親類が気さくに、家庭菜園のわきに植わっていた花も持っていかないか?と新聞紙に巻いて持たせてくれた。予想外の花ではあったが別段断る理由もないし、季節の花の手土産もよさそうに思えた。

先方は同世代の夫婦で、大都会の小さいが現代的なマンションの一室で、もちろん快く迎えてくれたのだが、この花が問題だった。お宅に花瓶がなかったのである。

今の時代、訪問マナーとして「花瓶に生けるお手間をとらせないためにも、生花は籠などアレンジメントを選び気遣うべし」などとよく聞くが、その頃にはまだそこまではなかった。私も先方もお互い若かった。花を受け取るも入れる物がなく立ち尽くし戸惑っているらしい奥様に、あわてた私がひとまず「あっ、ペットボトルの空容器あれば、それかバケツなどに水を張って挿して置いておきましょうか」…などと言ってしまったばかりに、困らせたのではないかと思う。「空ボトルはその都度ごみに出してしまっていて一本もありません…。」そちらのご主人が奥様をかばうように、「いやー、マンション住まいにバケツなんかありませんよ、今時掃除に使うこともないですし(笑)」と。私は余計なことを言ったと一人真っ赤になった。

つまるところ、摘んだばかりの花など、ちょっと迷惑なものを持参してしまったのである。人様の御宅でバケツを!なんて大きな声で言ってしまったし、少なくとも喜ばれなかった。その感触が恥ずかしい一日だったことだけを覚えている。

 

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(時代は戻ります)朝早くから、母が大きなユリの花を片手に玄関で立っていた。

朝の可燃ごみ出しに集積所へ行ったら、そばのお宅から声を掛けられて、「咲いたから、持って行って~」と、その場で切ったばかりのユリをどうぞと手渡されたらしい。大きくて見事なユリだった。

母が花瓶を探してくる間、くだんの赤面記憶がぶり返したが、そうだ、ここではバケツのひとつ、空の一斗缶でもなんでも、結構すぐ出てくるんだった、と思った。あの日私を恥じ入らせた新聞紙の花束は、「きれいだから持ってって」の親の世代のお裾分け感覚だった。

 

ああやっぱり。畑の隅からの一輪は、ちょっと不躾だが気取らない季節の一筆箋みたいなもの。花を一時投げ入れておく、バケツでも空容器でも、何か探せば出てくる空間。そういう無駄のある「間」に自分はこうもなじみがあるのだと言うことを知らされた朝だった。

あの若い日の花はうまく届けられなかったかもしれないが、あの日の痛みはやわらいでいる。こうして老親がここで、人から気軽に花をもらっていること、声を掛け手折ってくれる人がいること、よっこいしょと花瓶を探してくること、ガタつきながらも押入れをひっくり返して物の出てくるこの空気に、どこか私は安心し和んでいることに気づかされている。

 

無駄はあるかもしれない。だがこういう無駄と、その無駄がゆるされる間合いを、心の中に持っていても、悪くはないだろう。人と人、気持ちというのは、効率や合理性の枠外で動くことのほうが多いからだ。そんな気がしている。

 

あなたの中の価値ある無駄はどんなものですか。

これは頂き物ではないですが、庭先の印度浜木綿