カナリアるーむ こころの相談室

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春 門出 子どもたち

例年より早く桜が満開を迎えました。別れも旅立ちも門出も出会いも、桜色に染まる季節ですね。

 

先日、就職の決まったお子さんをいよいよ家から出す、というご家族とお話をする機会がありました。大家族のそのお宅では長子の一人暮らしとあって家族成員の誰かが巣立つ初の出来事らしく、布団やカーテン、冷蔵庫やレンジなど家電品をそろえて賑やかに慌ただしい傍らで、小さい弟妹が「兄ちゃんいつ行くの?」と目を潤ませるなどのエピソード、各々が一歩大人になろうとしている大切な瞬間という印象でした。「このまま向こうでだれかいい人にでも出会ったら、ほんとにこれが最後かも…なんてそこまでアハハ」とわざとぞんざいに笑ってみせる目は気のせいかもしれないけれど、送り出すその人の寂しさと安堵が綯い交ぜになって、少し赤く緩んで見えました。

大人の方ならきっと皆様にも思い出があることでしょう。振り返ると自分にもまたそのような春がありました。

そんな近況をお聞きして今回は、レバノン生まれの詩人ハリール・ジブラーン خليل جبران Khalil Gibrunの詩を思いました。今日は、作品『預言者』から子どもについての一節を紹介したいと思います。(ここで出てくる“彼”とは、預言者 prophet のことです。)

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「子どもについて」

 

赤ん坊を抱いたひとりの女が言った。

どうぞ子どもたちの話をして下さい。

それで彼は言った。

あなたがたの子どもたちは

あなたがたのものではない。

彼らは生命そのものの

あこがれの息子や娘である。

彼らはあなたがたを通して生まれてくるけれども

あなたがたから生じたものではない、

彼らはあなたがたと共にあるけれども

あなたがたの所有物ではない。

 

あなたがたは彼らに愛情を与えうるが、

あなたがたの考えを与えることはできない、 

なぜなら彼らは自分自身の考えを持っているから。

あなたがたは彼らのからだを宿すことはできるが、

彼らの魂を宿すことはできない、

なぜなら彼らの魂は明日の家に住んでおり、

あなたがたはその家を夢にさえ訪れられないから。

 あなたがたは彼らのようになろうと務めうるが、

彼らに自分のようにならせようとしてはならない。

なぜなら命はうしろへ退くことはなく

いつまでも昨日のところに

うろうろ ぐずぐず してはいないのだ。

 

あなたがたは弓のようなもの、

その弓からあなたがたの子どもたちは

生きた矢のように射られて 前へ放たれる。

射る者は永遠の道の上に的をみさだめて

力いっぱいあなた方の身をしなわせ

その矢が速く遠くとび行くように力をつくす。

射る者の手によって

身をしなわせられるのをよろこびなさい。

射る者はとび行く矢を愛するのと同じように

じっとしている弓をも愛しているのだから。

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神谷美恵子「ハリール・ジブラーンの詩」(角川書店)より

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もう故人となられた先生から紹介された詩でしたが、当時の私はまだ親でもなく自覚ある大人としてではなく、(大人未満の)子どもとしての立場から読みました。それでも心に残った詩でした。時を経てなお訴える力のある詩だと感じます。

親である者にも子である者にも、この世に生を受けた者なら心の水面を打つ詩ではないかと思います。門出の春、人生の節目に、慎ましい気持ちで、少し長めの抜粋となりましたが載せました。

命の最初に立ち返りながら、大人であるあなたにも、子どもである(あった)あなたにも、心の穏やかな成長を祈ります。


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(撮影:夙川オアシスロードにて)