皆さんは普段、寂しさとどんなふうにつき合っていますか。
大人ならば孤独、寂しいのが当たり前、人と会って語らう、趣味の時間を過ごす、動物や植物と過ごす、忙しければそんなものは感じる暇がない・・・いろいろなつき合い方があると思います。
寂しさという感情は、人を豊かにしてくれるものではあるのですが、「寂しい」というそのままの姿で現れることが少ないから厄介です。
ある時は腹立ちやイラつき、ある時は甘えやしがみつき、嫉妬、ある時は拒絶。食べ物・人・もの・お金・仕事・娯楽などが度を過ぎた形をとることも、感情が涸れてすべての希望を失ったかのような果てへ人を落とし込むこともあります。
谷川俊太郎さんの詩にこんな言葉があります。
子、肉親?友?配偶者、恋人?あるいは、あなた自身か。熱にうなされる者にとっては、もはや判断されることなど無用。わからないか?わかってくれ。この苦しさを今すぐ全部取ってほしい。
ところが手をさしのべようとすることすら痛みになり、なにかしようとすることすら暴力的になることがある、そんな現実をつきつける。
私の感じる痛みがわかるか。この痛みをわかろうとしてくれるな。或いはお前も痛め。しかしその痛みは私の感じる痛みと同じではないのだが。
小さな赤子の気持ちに似た、原初の叫び、憤怒にも聞こえます。
満たされることを望んで存在すべてを欲するか、圧倒的な他人との境に絶望しすべてを拒むか。幼ければ幼いだけその両の極を行ったり来たりしますが、実はこれは大人になっても持ち続けている感情の極です。皆あれこれ何だかんだ理由はつけていますが、私たちはこの両極で喜んだり苦しんだり忙しいのを、うまく涼しい顔をしてやりすごしているだけかもしれません。この感情は寂しさとなり、幼き時は養護者になだめられ、そして次第に自分で自分をなだめながら、われわれは大人になっていきます。
谷川さんのこの詩はいつ読んでもどきりとし、胸を抉られるような気持ちにさせられるけれども、これがわたしたちの本来の姿なのではないかと思います。
もしいまあなたが人との間でなにか困難を抱え苦しんでいることがあるとしたら、どんなことからでしょうか。
強すぎる感情ですか。あるいはまったく気持ちが閉ざされてしまっていますか。
求めている、拒絶している、どちらに大きく針がふれていますか。
どうにも手に負えない、何かとらわれるような騒がしい感情はありますか。または厚い壁に塗り込まれたような気持ちがしますか。
それはおもに誰の感情ですか。あなたの感情ですか、それとも誰かの、相手の感情ですか。もしも自分のではないと思ったら、相手に返しましょう、相手から取ってしまわないで。あなたの感情であれば、自分に引き寄せて、この感情がいつどこから来たものか考えてみましょう。
「寂しさ、哀しみは紛らわすことは出来ても、ひとりで生まれ、ひとりで死んでゆく生き物にとって、避けることの出来ない基本的感情ではないでしょうか。どんなに愛していても、相手の孤独を尊重することが大切だと思います。」
谷川俊太郎「私の胸は小さすぎる」(角川学芸出版)より
ここで紹介した詩は愛と恋をうたったものですが、それはつまり大人となり、一人で居られるようになったことをうたった詩でもあります。
願わくば、自他の境界を守り、孤独に耐え、それでもなお人を求めたり、愛したりできる。その過程で、適度な寂しさを連れて生きられる。そこに己の底力を感じてゆけるように、どうぞ、なにより自分自身の寂しさ哀しみを尊重し、大切に扱ってほしいと思います。